沖縄県の宮古島は、観光や不動産投資などで大きな注目を集める離島です。その歴史は深く、島の文化や伝承として脈々と続くもののほか、宮古島のそこかしこには歴史的建造物が残っています。今回はそんな、宮古島の歴史的建造物や史跡にスポットを当ててご紹介します。
沖縄は本州などとは異なる歴史を持ち、それは宮古島でも同じです。古来から続く独自の文化と歴史が、いまの宮古島の礎となっています。宮古島には歴史に彩られた建造物や史跡が多く残されており、島の人々に大切にされています。
今回ご紹介する建造物は「久松みゃーか」と「大嶽城跡」、そして「平良第一小学校 正門と石垣」です。
最初にご紹介するのは「久松みゃーか」です。「みゃーか」とは巨石墓のことを言い、宮古島でかつておこなわれていた風葬の墓とされています。現在は4基しか確認できていませんが、昔は多くの「みゃーか」が宮古島の久貝と松原にあったのではと言われています。
14世紀から16世紀ごろに建てられたとされ、久松みゃーかのある久松では「ぶさぎ」とも。このみゃーかについては研究者による説が複数あります。また「久貝にある久貝ぶさぎ」においては仲宗根豊見親の夫人の父、「安嘉宇立親」の墓と伝わっているなど、「みゃーか」は宮古島の歴史をより深く知るための大切な史跡でもあるのです。
続いてご紹介するのは、大嶽按司の居城跡「大嶽城跡(ウプタキじょうせき)」です。宮古島の上野野原にあるこの城跡は、14世紀に周辺を支配していた大嶽按司が住んでいたとされる城の跡。現在は「大嶽城趾公園」となっており、静かに佇んでいます。
公園には展望台もあるため、周囲の景色を一望することも可能。「野原岳の霊石」と呼ばれる石もあり、かつて大嶽按司が城の守護神として祀ったとされています。この霊石も、宮古島や大嶽城歴史に深く関わる史跡のひとつです。
最後にご紹介するのは、平良第一小学校にある正門と石垣です。建てられたとされる1932年(昭和7年)頃から70年以上もの歴史を持つ正門と石垣は、第二次世界大戦の戦火をも乗り越えて現代まで残りました。
昭和初期における高い石造建築技術や、教育史を伝える大切な文化財であると共に、第二次世界大戦という日本にとっても沖縄にとっても忘れることのない大きな歴史の一幕さえも伝える存在です。校舎は失われましたが、今なおその姿を残す正門と石垣は、大変価値の高いものとして今も宮古島に有り続けています。
宮古島と言えば、美しい海やビーチを始めとしたスポットに目が行きがちですが、ぜひ宮古島の史跡や建造物にも目を向けてみてはいかがでしょうか。また随時、歴史的建造物や史跡について、ご紹介できればと思います。