こんにちは。
あるきっかけで始めてみたブログですが、
今回で400回を数える様になりました!
エグチホールディングス株式会社 江口勝義 です。
いつも読んで頂きありがとうございます。
決して真面目にこのブログをコツコツやって来たと言うわけではありませんが、ここまでやって来られたのはいつも読んで頂いている皆様のおかげです。
いつも本当にありがとうございます!
感謝!
元々は主に3つの理由で始めてみたのがきっかけでした。
日記をつけていく様にブログを書いていれば、インターネットの世界なので、必ずデータとして僕が死んでも後々残る。
過去に遡って、自分自身がその時どんな思考回路で行動していたのか?自分で判断できる自己成長の検証。
クリスから習った、自分自身が持つ〝 影響力の輪 〟を大きくしていくため。
7年ほど前にアメブロからスタートして、一年ほど前からこちらの自社のサイトに載せるように変えて来ました。
アメブロは訪問者数や閲覧PV、その他沢山のデータを収集することができ、ブログを読んでくれている皆さんの、文章の嗜好が少しわかって来たつもりです。
その出てくるデータを毎日の様に見続けていると、僕の考え方や書き方も少し変わっていく気がしていました。
自分が書きたくて、自分の為に書き始めたブログだったのに、皆さんにもっと読んでもらいたい。
どうすれば訪問者数などが増えるのかな…?
なんて考え始めた時に、いや、これは違うぞ…
始めた時の基本に立ち返り、自分の生き方、
〝 真っ直ぐに生きる 〟を自分に言い聞かせる為に書くべき。
いつも読んで頂いている皆さんにおかれましては、やはり僕の人生のミッションである、
「 人はやれば出来るという事を後ろ姿で見せ続けその象徴であり続ける 」
と言う事をこのブログで伝え、人生途中で投げ出したり諦めたりしちゃダメ!!
と、伝え続ける男として書きたい!
と言う考え方に変えてきました。
そうやって書いて行くと、しばらくするとアメブロでは記事を書けば最低でも2000人、
多い時では4500人の方々が見に来てくれるまでになりました。
狙って書かない方が読みに来てくれるんだ…
と言う実感をしました。
今回、400回目を迎えるにあたり、僕の生まれて来た時から今までの昔話を複数回に渡り書かせて頂き、総括して本当に皆さんに伝えたい事を書かせて頂きます。
おヒマな方だけお付き合いいただければ…と思います!笑
生まれは1971年12月13日。
福岡県八女市で長男として生まれました。
八女はホリエモンの故郷と同じ所ですね。
僕は様々な所で柳川市出身だと書いておりますが、柳川市は八女市の隣にあり、父親の故郷で本家がある所なのでそう答えております。
父親である一夫は5人兄弟の末っ子として生まれ、幼少期はどうしようもない暴れん坊だったと聞いております。
僕や姉の気性の荒さは間違い無く親父譲り。
僕らが子供の頃から親父の車に乗っていると、しょっちゅう他人と揉め事をしていましたね…
それを幼少期からずっと見て来たので、僕も良い歳になるまで揉めまくり。
高校生くらいの頃はトラブルメーカーと呼ばれてました…涙
親父は中学を出ると、直ぐに鉄筋屋に弟子入りし、一年後に独立。
聞こえは良いのですが、人に使われたり、会社などに勤める事は無理だったのでしょう…
これも僕がそのまま受け継いでしまい、バイトは務まらないし、今までも会社に就職した事がありません…
そのままの気性、人生観で生き続けた親父は、やがて僕の母親である房子と出会い、駆け落ち結婚。
その当時の親父を、おっ母さんの親父、つまり母方のおじいちゃんはとてもじゃないが受け入れる事はできず、駆け落ちしたらしいです。
「 房子さんを下さい! 」と、言いに言った親父は、手土産に持って言った饅頭をおじいちゃんの家の玄関に叩きつけて帰って行ったらしいです。
駆け落ち結婚の後、酒と女に溺れた親父を見限り、僕が2〜3歳の頃におっ母さんが僕らを九州に残して逃走。
その逃げた先が名古屋のお兄さんの家、つまり僕のおじさん(おっちゃん)の家でした。
おっちゃんも就職で名古屋に来ており、その当時の家は名古屋市守山区にある市営団地、緑ヶ丘住宅でした。
今でも自分の原点を思い出す為に、1〜2年に一度はこの場所に行っています。
逃走したおっ母さんを連れ戻すため、親父が頭を下げに来た時に、戻る条件としておっちゃんが出したのが、おっとゃんのそばにいる事。
つまり、名古屋に僕らをを連れて引っ越して来い!と。
そのまま九州に居たのでは、同じことの繰り返しになるとの判断だったのでしょう。
親父のことをよく知る僕も断言出来ますが、
そりゃ間違いない!
おっちゃんナイス判断!!笑
それから江口家の名古屋での暮らしが始まりました。
本当に微かに名古屋に来た時の記憶が今でもあります。
1つターニングポイントとしては、親父が女遊びで酒浸りでなければ、僕たちはそのまま九州での暮らしが続いて居たのではないでしょうか?
もし、おっちゃんが当日住んで居た所が名古屋でなければ…
親父が名古屋に謝りに来なければ…
もう一度やり直したいと思って居なければ…
これは言うまでも無く、今の僕はありえない。
人生とは現在から過去に遡って俯瞰してみると、緻密で絶妙なタイミングで仕組まれて来たと言えるのではないでしょうか?
幼稚園は守山区にある第二富士幼稚園に通わせてもらっていました。
僕は幼稚園の頃からかなりのいじめっ子で、周りの子には乱暴の限りを働いていました。
何かあると直ぐに殴られる家だったので、周りにもそりゃ暴力振るいますよね。
僕の持論…
「 子供は育てられた様にしか育ちません 」から。
小学校に上がると、第二次ベビーブーム世代の僕たちの年代は、まだ小学校は少なく、かなり離れた学校まで分団登校にて通って居ました。
一年生に上がると高学年のお兄ちゃん達からからかわれたり、蹴飛ばされたり…
小学校五年生や六年生とは体格差があり過ぎて、とてもじゃないけど歯向かう気持ちにはなれない。
「 やられたらやり返して来い! 」と言う両親に「 やって来た! 」と嘘を言い、何とか晩御飯に有り付いていましたね…
当時、六年生の〝 マーキン 〟と呼ばれていたお兄ちゃんからの意地悪は酷く、ガキながらにいつかやりかえしてやる!!と思っていた時にチャンス到来。
チョット頼りない2つ下の〝 タカシ 〟を連れて、マーキンが外で飼っていた金魚を1匹ずつ持って来させて、2人で石や木の棒でグリグリ…
気付いたら10匹以上いたのに全滅。
それを土に埋める事もせず放置。
あれ程「 言っちゃダメだよ! 」と言ったのに、その日のうちにタカシはマーキンにペラり…
マーキンの家におっ母さんと謝りに行ったけど、その日から彼も僕をいじめて来なくなりました。
その残虐さにさすがのマーキンもビビったな…
と、子供心に思いました…笑
この頃になると学校では完全に手が付けられない様な生徒となっていました。
授業の妨害は当たり前。
目に入ったものは全員殴る。
なのでしょっちゅう学校の先生から殴られていました。
一年生の二学期の授業参観後の母親懇談会では「 江口がいるから学校に行きたくない! 」と、他の親達からの突き上げが酷く、その日の夜の両親からの怒られ方は想像を絶するものでした…
小学校からの親友のマサテルに言わせると…
お前は本当にジッとしてなかった。
今で言う発達障害など、病名が付いていてもおかしくなかった…と。
実際、振り返ってみると自分でもそう思います。
突き上げてくる、意味のない衝動を意識的に抑えられる様になったのは、ぶっちゃけた話し23〜24歳からです…涙
両親や先生はチカラで抑えつけようとしてくるので、僕は学校でそのストレスを発散。
この懇談会の後に思い詰めた両親は武道で心を鍛えろ!と僕に詰め寄り、嫌々泣く泣く空手を始めました…
空手の事は今でもたまに夢で見ます…
痛くて苦しくてメンドくさい…
どれだけ辞めたいと言っても親父が鉄拳制裁混じりで辞めさせてくれる事はなく、結局、6歳から17歳まで続けましたが、一度も楽しいと思った事は無い。
試合に勝っても負けてもやる気は全く無く、
ただやってるだけ。
もっと言って仕舞えば、人の殴り方を習いに行っていたようなもの。
前にも書きましたが、周りの中学校の同年代の悪い奴は皆親友。
なぜかと言うと小学校の頃から、皆同じ道場に通ってるんだから…笑
空手で鍛えられても、誰かに諭されたりしても、僕の素行が良くなる事はありませんでしたね…笑
長くなるので続きは次回!!
いつも最後まで読んで頂きありがとうございます!!