EGUCHI HOLDINGS GROUP

夢を現実に!!! 祝400回-4! 2017/11/27【 Vol 404 】


こんにちは。
週末に移動して、バンコク〜カンボジアの視察へ行ってきます。

エグチホールディングス株式会社 江口勝義 です。
いつも読んで頂きありがとうございます!

今回も前回からの続きです…

車の借金があり、息子が会社を辞めたと言う事があると、自然と家にいる事はできません。
僕もその辺りはよく理解していました。

19歳でアパートを借りて、ボロボロの車を買い、自立した生活を送る。

実際にはそんなに格好の良いものではありませんでした。

ガキの頃からの抑圧された環境から、一気に全てが開放感のある生活へ…
後から思えばウチはかなり開けた家だったみたいですが、心の中では抑圧さらてました…

仕事もせず、パチンコや競馬などの遊びでギリギリの生計を立てて、当時付き合っていた彼女にも辛い思いをさせちゃってました…

毎日夕方になると友人達が僕の家に自然と集まってきて、毎晩どんちゃん騒ぎか博打。
彼らが明日の仕事や学校の為に帰宅したあとが、本当の自分と向き合う時間となります。

「 このままじゃヤバイな… 」
「 このままじゃチンピラで終わるな… 」
毎日朝まで眠れない夜を過ごして、日が昇る5:20分から始まる「 母を訪ねて3000里 」をみて、ポンキッキを見だすと寝落ち…

夕方友人達からのポケベルで目を覚ます…
どうしようもない生活…

そんな生活を続け、二十歳を超えたある日…
友人から浄水器を売るネットワークビジネスに誘われ、すかさずサインナップ。

過去にいくつも紹介されたけどやる気が出ない…
だけどこの会社のはやってみたかったんです。
結局、20歳〜23歳位まではその仕事をしていました。

一度熱中してやり出したら、何事も誰にも負けない。
そう自分に言い聞かせて死に物狂いでやってました。

実際にやり出すと、数字が足りない時はサラ金からお金を借りてきて、在庫を持つような禁じ手もやっていましたが、多い月で150〜190万円くらいの収入を手にしてました。

そんなお金がこの前までプータローだったガキの所に転がり込むものだから、翌月は遊び倒して仕事はしない。
全てフルコミッションで、人に雇われているわけではないネットワークビジネスは、個人のモチベーションが全て。

翌月のコミッションは5万円だったり…
仕事してないですからね…

直ぐにメンバーを集めて叱咤激励!
翌月はまた150万円入ってきて遊び倒す…
またメンバー集めて…

その時は前のめりで周りが見えてないので仕方が無かったのですが、今思うと本当にアホ。

叱咤激励も前日まで遊んでたメンバーにやるので、当然反感は買います。
メンバーと言っても、元々は友人やその友達。
喧嘩や言い合いはしょっちゅう。

結局最後はグループも崩壊して行きます。

でもこの時の経験から、人との向き合い方、
わがまま放題ではダメなんだ…
お金を稼ぐという事は継続する事…
お金に集まってくる人を見分ける…
騙そうとしてくる人の仕草…
目標数字の達成の仕方…

本当にたくさんのことを学びました。

特にイベントなどの運営は勉強になりましたし、自信にも繋がりました。

ふた月に一度位で、事務所経費を捻出するために参加者250人程のパーティを立ち上げて、司会進行、打ち合わせ、表彰式やアジェンダを作って、見よう見まねぶっつけ本番で開催し、実際毎回数十万円稼いで事務所の運営をしていました。

この時の経験で、悩んだり、考え込んだりする前に
「 兎に角やってみよう やらなきゃ何も始まらない! 」
この精神も今でも自分の中では確実に活かされています。

この仕事をやっていた時の目標は「 リアルプロデューサー 」というピンレベルを取ることからスタートしました。
ピンレベルと言うのは課長や部長の様な〝 肩書き 〟です。
このピンレベルになると、ひと月のコミッションは60〜200万円。

皆がここを目指してスタートしますが、結局振り返ってみると、このピンレベルに到達するのは数百人に1人でした。
実際僕のグループも数百人いましたが、このピンレベルになれたのは僕1人でした。

僕は過去に、 人はやれば必ず出来る!と、確信していたので、サインナップしたその日から、なにも考えず、全開本気で立ち向かいました。

これ程仕事で熱中出来るものか…
仕事って、お金を稼ぐって面白いんだな…
生まれて初めての感覚でした。

最短で2ヶ月あればそのピンレベルは取ることが出来ますが、何年やってても、数百人に1人しかなれていない。

在庫を持ったり、数々の禁じ手は使いましたが、僕は3ヶ月でそのピンレベルに到達し、そのコミュニティの中では〝 時の人 〟になっていました。

そのピンレベルになると、僕は紫のスーツにピアスを付け、自分のお父さん位の年齢の方に言うわけですよ…
「 ◯◯さん、やればできますから!僕でも出来ましたから! 」と。笑

このピンレベルを取った時のフォーラムや表彰式は一生忘れることはありません。
若干20歳の、バイトも一週間続かないクズみたいな男が、ある日を境に数百人の前でトークをし、歳上の先輩達を叱咤激励するのですから…

その時の僕の仕事は人前で話す事となっていました。

結局数年やっていると、全てが「 虚 」の世界に思えて、何もかもが同時に嫌になり、またプータロー生活へ逆戻り。
この時のアウトローな生活が祟り、かなりの借金を持っていましたが、後々全て返済しました。

借金も沢山ありましたが、貸しているお金も数百万。
何をやってるんだ…という毎日ですよ。
そのお金は回収していません。
それで切れていく友人知り合いはかなりいましたね。
だからお金の貸し借りをしたくないんです…
寂しいじゃないですか…
お金の払い方や使い方でヒトが見えます。
今では貸した人達の名前も顔も覚えていない…笑

一度落ち着いて仕事を探そう…と言う気持ちもあり、落ち着いていられない、支払いが毎月やって来る…と言うジレンマの毎日でしたが、兎に角手当たり次第に色々な仕事をやっては一週間でやめ、探しては辞め…
その連続でした。

結局紆余曲折あり、親父も歳をとったし、両親は僕をひどく心配していた事もあり、また江口鉄筋に戻る事に…

本当に嫌だなと思いながらも毎日死に物狂いで働き始めました。
エアコンの効いたオフィスやファミレスで、人と話して大金稼いでいた人間が、炎天下の中、重い鉄筋を担ぎ、一日4〜5リッターの水を飲まなければ仕事にならない様な肉体労働の仕事に逆戻り。

「 人前や友人達の前で、夢を語ったり話す事もやめよう… 」
そう思う毎日でした。
自分の中ではその時が辛くて辛くて…

「 明けない夜は無い 」
「 長い冬の後も必ず春はやって来る 」
毎日そんな事を自分に言い聞かせながら仕事をしていました。

この頃僕が頑張れた最大の理由は、嫁さんに出会い、息子が生まれたからです。

嫁とは出会って半年後には結婚をして、
その翌年長男 雄星 が生まれました。

本当にこの人は凄え…
よくあの頃の僕と結婚したなぁ…
俺が嫁なら絶対結婚しないわ…
メチャ根性あるなぁ…

いつもそんな話を今でも彼女としますが、
彼女は何も考えない短気でどうしようもない僕に世の中の常識を教えてくれた人です。

言うことだけはいつも大きく、実力が伴わない僕に「 いつまで鉄筋屋さんの職人なの? いつになったら… 」

結婚して暫くしたある日、仕事に行く準備をしていた僕に厳しい一言。

「 まだ時期じゃ無い。今は辛抱の時だ! 」
と言う僕に…
「 時期っていつなの? いつになったら… 」

悔しくて悔しくて…
その日は1人車の中で泣きながら仕事に向かっていました。

そりゃそうだわな…
僕とは違い、何不自由なく過ごして来たお嬢さんが耐えられないわな…

今では笑い話ですが、彼女が嫁に来た時に住むことになったアパートに、彼女のお婆さんが初めて来た日…

おばあさんは一頻り泣いたらしい…
こんな所に嫁に来てしまって…と。涙

おばあさんを泣かせたアパートはこれ…笑

この当時は毎日現場で汗水流して働いており、給料は日当で12000円位程だったと記憶してます。
その中きら借金の返済もしていました。

「 あーぁ…あの頃は涼しい顔して稼いでたなぁ…どうやったら上に這い上がれるんだろ? 」

苦悶葛藤の毎日でした。

そうこうしていると、2人目の子供、かんなが生まれ、借金を返すためにもありますが、本当に貧乏していました。
僕が乗る車は貰った車ばかり。

借金があるうちは贅沢なんてしてられない。
落ちれるところまで落ちてやるぜ!
もうこの頃は開き直ってましたね。

「 そんな拾った様な車、よく乗ってるなー! 」
なんて周りの人に言われていましたが、
いつか見てろよ…
必ずやってやるからな…
絶対に見てろよ…
目にものを…

人一倍負けず嫌いなので、嫁さんからのひと言や、彼らからの叱咤激励が骨身にしみて来ます。

今思えば、彼らからの言葉をいつもプラスに変える作業はしていたなぁ…
逆にありがたかったです。
それがなかったら、今でも適度な場所で甘んじていたに違いない。

下や横を見ればキリがないですからね…

歳も25歳になると現場を任され、初めて親方業をして行くことになりました。
オヤジの凄いところは、良くも悪くも丸投げ。
失敗はメチャメチャしちゃうけど、仕事を任されて、自立心が生まれるのには最速だと思います。

実際、当時の弊社は現場の拾い出しや、施工も酷かったと思いますが、現場で大人数を指揮して、約束の日にちに遅らせる事なく運営する…

生まれて初めて〝 責任 〟と言うものの重みを学びました。
僕は30歳位まで本当に何も考えずに生きてきました。
考えが到達しないんですよね。
どうやって物事を考えて良いのかすら分からない。

大人になってからは苦労しました。
大人になってから学んだことの方が、100倍ありますね…

そんなある日オヤジから不意に言われました。
会社は後はお前がやっていってくれ。
俺は大型トラック乗ってる運転手と加工場を見るから…
と、突然会社のバトンを渡されました。

実際に蓋を開けて見ると、オヤジはユックリしたかったんですよね。
長年職人でやって来た人なので疲れたんでしょう…

仕事の責任から少し外れて、前にも増してお酒を飲み散らかす毎日になってました…

僕はその頃28歳になっていました。

肩書きはオヤジが社長、僕が専務のままでしたが、殆ど全ての権限を僕に持たせてくれていました。

丸投げと言えば丸投げですが、今の僕にそれが出来るか?と言えばできません。
後進者がお客様にご迷惑をかけるに違いない…
と思うから。

でもこの決断をしてくれたからこそ、今の僕の成長がある。
やっぱり親には何をやっても敵わない。
彼らがいなければ僕らはいませんからね…

長くなるので続きは次回。
いつもありがとうございます!!