沖縄県には独自の歴史と文化、伝統を育んできた長い歴史があります。それは離島である石垣島や宮古島などでも同様で、島ごとに異なる文化や伝統が脈々と伝わっています。旅行で沖縄を訪れる際は海やアクティビティで楽しむことを考えがちですが、文化や伝統などにも目を向けたいものです。
今回は石垣島にスポットを当て、石垣市の文化財についてご紹介いたします。石垣島を訪れる際には、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
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石垣市には史跡や名勝、天然記念物、そして有形・無形を含めて大変多くの文化財があります。とくに天然記念物などは、通常の観光において文化財とは知らずに眺めているケースもあり得ます。
今回ご紹介する石垣市の文化財は、国指定の重要文化財「旧宮良殿内(きゅうみやらどぅんち)」、「旧和宇慶家墓(きゅうわうけけばか)」、「権現堂」の三カ所。どれも17世紀から18世紀ごろに建造されたもので、大変貴重な文化財です。
最初にご紹介するのは、石垣市大川にある「旧宮良殿内(きゅうみやらどぅんち)」です。当時の八重山の行政官、「頭色」の地位にあった宮良親雲上当演(みやらべーちんとうえん)によって、1819年に建てられました。身分にそぐわぬ建築として琉球王府から建て替えを命じられ、反発したという話も現代に伝わっています。
主屋は本瓦葺木造平屋建ての母屋には、石垣島産のイヌマキ材のほか、屋久杉の1枚板を中戸に使用。また南側には薬医門形式の表門、内部には築地塀形式のひんぷん、周囲には石垣があり、琉球の士族屋敷を模した旧宮良殿内は、八重山、そして沖縄の様式を残す重要な建物として知られています。
続いてご紹介するのは、石垣市字大川宇志原「旧和宇慶家墓(きゅうわうけけばか)」です。旧家である和宇慶家(わうけいけ)が本家(玻武名家)から譲り受けたとされる墓で、17世紀の後半に作られたと推測されています。
この墓の興味深いところは、墓室が洞穴式であることと、岩盤による屋根があること、内庭や外庭があること、構造から一人のために造られたと想定される点などが挙げられます。沖縄の墳墓形式の歴史を見るなかでも大変貴重な存在である「旧和宇慶家墓」。洞穴式から亀甲墓へと移り変わる、まさにそのただ中にある特徴を持つ墓とされています。
最後にご紹介するのは、石垣市石垣にある「権現堂」です。1614年に八重山にとって初の寺として、「桃林寺」(臨済宗妙心寺派)とともに建立されました。権現堂には「沖縄最古」とされるものが多く、木彫りの仁王像や、ご神体である銅の宝鏡などのほか、権現堂そのものも最古の木造建築。また第二次世界大戦において沖縄では多くの建造物が失われましたが、権現堂はただひとつだけ残った近世社寺建築として、大切にされています。
桃林寺や権現堂が建立された経緯に、琉球内で寺院建設の声を上げたのではなく、薩摩藩が当時の王である「尚寧王」に進言したことがきっかけとして伝わっています。それまで八重山に寺院はなく、薩摩藩という外部からもたらされた権現堂は、八重山における宗教史を伝える大変貴重な文化財なのです。
沖縄はかつて琉球王朝があり、一般的に学校などで学ぶ日本の歴史とは異なる歴史と文化があります。琉球王朝の歴史や、それぞれの離島、地域などで育まれた文化は、現地で触れることによってより深く理解することができます。
石垣島を訪れる機会があれば、ぜひ一カ所でも文化財に立ち寄り、八重山の歴史や文化に触れてみてはいかがでしょうか。